製造業の従業員体験をデザイン思考で改善 実践ステップ
はじめに:従業員体験(EX)改善にデザイン思考が必要な理由
製造業の皆様におかれましては、日々、生産性向上、品質改善、コスト削減といった目標に取り組んでいらっしゃることと存じます。しかし、これらの目標達成には、技術や設備だけでなく、「人」の力が不可欠です。特に、従業員一人ひとりが意欲を持って働き、能力を最大限に発揮できる環境、すなわち「従業員体験(EX:Employee Experience)」の質が、企業の競争力を左右する重要な要素となってきています。
働きがいの向上、離職率の低下、部門間の連携強化、そして現場発の改善アイデア創出など、EX改善は多岐にわたる効果をもたらします。しかし、従業員のニーズや課題は多様であり、画一的な施策では根本的な解決に至らないことも少なくありません。ここで有効となるのが、デザイン思考のアプローチです。
デザイン思考は、ユーザー(この場合は従業員)への深い共感に基づき、課題の本質を見つけ、創造的なアイデアを生み出し、プロトタイプによる検証を繰り返しながら最適な解決策を導き出す手法です。本記事では、製造業の皆様がデザイン思考を活用し、社内の従業員体験を改善するための具体的なステップと手法を解説いたします。
デザイン思考で従業員体験を捉え直す:なぜ「共感」から始めるのか
デザイン思考によるEX改善の出発点は、外部顧客へのアプローチと同様に、「従業員というユーザーへの深い共感」です。彼らが日々どのような業務を行い、どのような環境で働き、どのような課題や不満、あるいは喜びを感じているのか。その表面的な声だけでなく、隠されたニーズや真の動機を理解することが不可欠です。
従来の従業員満足度調査だけでは見えにくい、具体的な「体験」に焦点を当てるのがデザイン思考の特徴です。たとえば、ある製造ラインの作業員は、休憩時間が短いことに不満を感じているかもしれません。しかし、真の課題は休憩時間の長さではなく、「休憩スペースまで移動するのに時間がかかる」「休憩スペースが快適でないため、十分にリフレッシュできない」といった、より具体的な体験の中にある可能性があります。デザイン思考では、こうした具体的な体験を掘り下げていきます。
デザイン思考プロセスの従業員体験改善への適用
デザイン思考は一般的に「共感」「定義」「アイデア発想」「プロトタイプ」「テスト」の5つのフェーズを経て進行します。これらのフェーズを、従業員体験改善の視点から具体的にどのように適用するかを見ていきましょう。
フェーズ1:共感(Empathize)- 従業員の「生の声」と「行動」に耳を傾ける
このフェーズでは、対象となる従業員(例:特定の部署の作業員、間接部門の社員など)の視点に立って、彼らの日常業務や体験を深く理解することを目指します。
- 現場観察: 実際に職場を訪れ、従業員がどのように働いているかを観察します。どのようなツールを使い、誰とどのようにコミュニケーションを取り、どのような場所で休憩しているかなど、注意深く観察します。
- インタビュー: 対象となる従業員に個別にインタビューを行います。単に「困っていることはありますか」と尋ねるだけでなく、「今日の仕事で最も時間がかかったことは何ですか」「休憩時間はどのように過ごしていますか」「このツールを使う時、どんな気持ちになりますか」といった具体的な質問を通じて、彼らの行動や感情、潜在的なニーズを引き出します。
- 従業員向けジャーニーマップ作成: 従業員が特定の業務プロセス(例:部品の受領から加工、出荷まで、あるいは稟議書の申請から承認まで)をどのように進めるかを時系列でマップ化します。各ステップでの行動、思考、感情を記述することで、課題や機会が潜むポイントを視覚的に把握できます。
- 社内従業員ペルソナ作成: 観察やインタビューで得られたデータに基づき、特定の課題やニーズを持つ代表的な従業員像(ペルソナ)を作成します。そのペルソナの属性、目標、悩み、日々の業務行動などを具体的に描写することで、チーム内で共通の「従業員ユーザー像」を共有し、議論の出発点とします。
フェーズ2:定義(Define)- 課題の本質と取り組むべき問いを明確にする
共感フェーズで収集した情報を分析し、従業員が抱える真の課題や解決すべき問題を明確に定義します。
- 情報の整理と洞察(インサイト)の抽出: 観察メモ、インタビュー記録、ジャーニーマップなどをチームで共有し、パターンや重要な気づき(インサイト)を見つけ出します。「多くの作業員が、特定の作業手順で必ず立ち止まっている」「部署間の情報共有が、常にメール添付ファイルで行われ、検索に時間がかかっている」など、具体的な事実から根本的な原因や隠れたニーズを導き出します。
- 問題定義(PoV: Point of View)の設定: インサイトに基づき、「誰(従業員ペルソナ)が、どのような状況で、どのようなニーズを持っている。なぜなら(インサイト)だからだ。」という形式で、解決すべき問題を明確に定義します。例えば、「多忙な製造ライン作業員は、短時間で心身をリフレッシュできる休憩方法を必要としている。なぜなら、現在の休憩スペースは遠く、設備も不十分で疲れが取れないからだ。」のように記述します。
- HMW(How Might We)クエスチョンの設定: 定義した問題(PoV)に対し、「私たちはどのようにすれば〜できるだろうか?」という形で問いを立てます。この問いは、次のアイデア発想フェーズの指針となります。「多忙な製造ライン作業員が、短時間で心身をリフレッシュできるように、私たちはどのようにすれば手助けできるだろうか?」
フェーズ3:アイデア発想(Ideate)- 多様な解決策を生み出す
定義された問題(HMWクエスチョン)に対し、自由な発想で多様な解決策を考え出します。現実的な制約(予算、時間、安全性など)も考慮しつつ、まずはアイデアの量と多様性を重視します。
- ブレインストーミング: HMWクエスチョンを中心に、チームメンバーでアイデアを出し合います。多様な背景を持つメンバーが参加することが重要です。否定せず、自由に、多くのアイデアを生み出すことを心がけます。
- その他の発想手法: SCAMPER(代替、組み合わせ、応用、修正、別の使い道、取り除く、逆転)やマインドマップ、KJ法なども有効です。既存の制約を意図的に取り払って考えてみる「制約からの発想」や、全く関係ない分野の事例を参考にする「アナロジー思考」も、斬新なアイデアにつながることがあります。
- 製造業特有のアイデア発想のポイント:
- 現場の声を反映: アイデアには必ず現場の視点を取り入れます。
- 安全第一: 安全性を損なうアイデアは排除するか、安全対策を組み込みます。
- 既存設備・システムとの連携: 既存のリソースを最大限に活用する視点も持ちます。
- 段階的導入: 一度に大きな変更が難しい場合は、スモールスタートできるアイデアを検討します。
フェーズ4:プロトタイプ(Prototype)- アイデアを形にして試す
アイデアの中から有望なものをいくつか選び、実際の形にしてみます。この段階では、完璧である必要はありません。最小限のリソースでアイデアを具体化し、検証可能な形にすることが目的です。
- 具体的なプロトタイプの例(従業員体験改善の場合):
- 新しい休憩スペースの簡易的なレイアウト案(図や模型)
- 新しい情報伝達ツールのモックアップ(紙やデジタルツールで作成)
- 改善された作業手順のマニュアル試作版
- 部門間の連携を助けるチェックリストやフォームの試作
- 新しい研修プログラムの概要や一部コンテンツ
- 現場で使うツールの改善案(模型や既存品への改造例)
- プロトタイピングのポイント:
- 早く、安く: 時間とコストをかけずに迅速に作成します。
- 検証可能に: 何を検証したいのか(使いやすさ、効果、従業員の反応など)を明確にします。
- フィードバックを得やすく: 実際に触れたり使ったりした従業員が、率直な意見を言いやすい形にします。
フェーズ5:テスト(Test)- 現場で検証し、学びを得る
作成したプロトタイプを、対象となる従業員に実際に試してもらい、フィードバックを収集します。テストは、アイデアが本当に従業員の課題を解決できるのか、どのような改善が必要なのかを知るための重要なステップです。
- テストの実施: 実際にプロトタイプを現場に持ち込み、対象従業員に試してもらいます。観察、インタビュー、アンケートなどを組み合わせてフィードバックを収集します。
- フィードバックの収集と分析: 従業員からの率直な意見、行動観察で気づいた点などを記録し、分析します。「良かった点」「悪かった点」「改善点」「新しいアイデア」などを分類します。
- 学びの反映と再イテレーション: テストで得られた学びをもとに、元の問題定義に戻って見直したり、アイデアやプロトタイプを改善したりします。デザイン思考は直線的なプロセスではなく、この「テスト」から前のフェーズに戻るイテレーション(繰り返し)が非常に重要です。従業員のニーズに寄り添いながら、解決策の精度を高めていきます。
製造業における従業員体験改善のための実践ポイント
デザイン思考を製造業のEX改善に適用する際には、いくつかの特有の難しさがあります。これらを乗り越えるためのポイントです。
- 経営層の理解とコミットメント: EX改善が生産性や品質に直結することを経営層に理解してもらうことが、予算確保や全社的な推進のために不可欠です。デザイン思考のプロセスや成功事例を具体的に説明し、協力を仰ぎます。
- 現場の巻き込み: 実際に働く従業員自身が、課題発見やアイデア創出のプロセスに参加することが成功の鍵です。彼らの知見は最も貴重な情報源であり、自分たちの手で改善を進めるという意識が定着につながります。多忙な現場で時間を確保するための工夫や、参加しやすい形式でのワークショップ設計が必要です。
- 部門間の連携: EX改善は、人事部門だけでなく、製造部門、技術部門、IT部門など、様々な部門が関わる領域です。デザイン思考ワークショップなどを活用し、部門間の壁を越えた共通理解と協力体制を構築します。
- 現実的な制約との向き合い方: 安全基準、既存設備の仕様、厳格な運用プロセスなど、製造業には多くの制約があります。これらの制約を無視するのではなく、理解した上で、その中で実現可能な創造的なアイデアを生み出す、あるいは制約自体を乗り越える方法を模索する視点が重要です。プロトタイピングの段階で、実現可能性を意識し始めます。
- スモールスタートと継続的な改善: 一度に大規模な改革を行うのではなく、特定の部署やプロセスを対象に小さく始め、成功事例を積み重ねることが有効です。デザイン思考のテストフェーズで見つかった課題を、次の改善サイクルにつなげる継続的な取り組みが、組織全体のEX向上につながります。
まとめ:デザイン思考で働く環境をデザインする
製造業において、従業員体験の質は、単なる福利厚生の問題ではなく、生産性、品質、安全、そしてイノベーションに直結する経営課題です。デザイン思考は、従業員一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの視点から課題の本質を見つけ出し、創造的かつ具体的な解決策を生み出すための強力なフレームワークとなります。
ぜひ、皆様の職場で、従業員を「社内ユーザー」と捉え、デザイン思考のプロセスを実践してみてください。現場観察、インタビュー、従業員向けジャーニーマップ、簡易的なプロトタイピングなど、小さく始められるステップから取り組むことが可能です。働く環境を従業員の視点から「デザイン」し直すことで、皆様の組織がより活気にあふれ、持続的な成長を遂げる一助となれば幸いです。